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「扶南国」から「アンコール王朝」へと続くクメール人の栄華
アンコル王朝の祖先
紀元前2世紀に漢の武帝は、「遠交近攻」という戦略思想の下、張騫を西域に派遣しました。この時開かれた道が、後に“シルクロード”と呼ばれる陸の大動脈となりました。ところが、紀元2世紀頃から漢の力が弱まると、中国は群雄割拠の戦国時代に入ります。そして迎えるのが日本でも「三国志」で人気の三国時代です。後漢末期の覇権争いで最も有名な“赤壁の戦い”は、呉の孫権軍と劉備軍が連合を結んで強敵曹操軍に挑み、これを破った戦いですが、実はこの戦いの前に、呉の孫権はもう一つ秘策をもくろんでいました。
それは当時、中国の南にあった南シナ海一帯で王国としての力をつけていた「扶南」を従属させ、三つ巴の覇権争いの中で一方も二歩も抜け出すというものでした。しかし、孫権によって「扶南」に遣わされた二人の使者が、ジャンク船のような船でインドシナ半島を回ってシャム湾の「扶南」に辿り着くと、自国「呉」の威勢を見せつけるどころか、逆に「扶南」の国力にびっくりさせられたと言います。「扶南」はその頃既に、長さ60m、高さ10m、乗員7百人もの大きな船を有して盛んに外国貿易を行っていたのです。紀元3世紀頃には、インドと中国とを結ぶ海上交易ルートの中継地として「扶南」は大いに栄えました。
全盛を極めた「扶南」も6世紀になると、次第に凋落の一途を辿り、かつては属国であった「真臘」によって滅ぼされてしまいます。その後、群雄割拠の時代となり、それを統一したのが、802年にシェムリアップ近郊にアンコール王朝を打ち立てたジャヤバルマン2世でした。つまり、「扶南」はクメール人が打ち立てた最初の国であり、アンコール王朝を打ち立てたクメール人の祖先にあたるのです。アンコール王朝の歴代の王は、インドシナ半島全般に勢力範囲を拡げながらアンコールワットやアンコールトムなどの壮大な寺院を次々に建設しました。
現在、人気の世界文化遺産として知られるアンコールワットですが、わずか約150年前まではその存在すら知られていませんでした。密林の奥深くに眠り続けていたクメール王国の巨大な遺跡群は、今ではクメールの建築美術を語る上では欠くことのできないアジアの至宝となっています。
海のシルクロードで栄えた半島最古の街 マラッカ
この「扶南」という国ですが、1988年NHKが総力をあげて25年ぶりに『新シルクロード』を放映し、その翌年に『海のシルクロード』を放映しましたが、その舞台となった一つがマラッカ海峡であり、その中で“海道の王国”として活躍した国が「扶南」でした。
現在のマラッカ、は東アジアと東南アジアにおいて類をみないユニークな建築様式と文化的町並みを良く残していると評価され、2008年にペナン島のジョージタウンと共にマレーシア初の世界文化遺産に登録されています。
1400年にマラッカ王国が誕生し、交易によって繁栄していましたが、その後、ポルトガル、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ列強による支配を受け、独特の様式にヨーロッパ様式が融合しマラッカ特有の文化が形成されていきました。当時、マラッカ海峡には、季節風を利用してたくさんの東西の貿易船が集まり、内陸シルクロードに匹敵する規模の海上の道として発展したのです。中東方面から伝播してきたイスラム教は、マラッカにも大きな影響を及ぼし、現在のマレーシアの原型を作り上げたともいえます。いわばマラッカは、西洋と東洋とが出会い、融合してできた独特な町並や文化を育んできたのです。
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